法話集
こちらでは、動画や誌面に掲載されている純空壮宏の法話を掲載致します。
インタビュー記事や当院の紹介記事等は、メディア掲載のページにございます。
動画法話 - 僧侶向け勉強会にて -
沖縄での散骨で感じたこと
私たちは優しいお坊さんになれているか
ひゞつれづれ三都+壱だより(旭堂南青スケジュール機関紙より)
倶会一処
我が宗の宗祖である法然上人二十五霊場の巡拝についての公開講座に参加しました。
巡礼に興味がある私にとって『図解雑学 法然』を参考にした講義は
巡礼の功徳について特別な想いが蘇ってきました。
それは二年前に三十歳で出家得度した私が、
仏教の事を知るために行動したことが巡礼だったからです。
当時、京都西山短期大学で仏教を学び始めましたが、
始めの半年間は仏心と云う心は生れてきませんでした。
そのかわり沢山の疑問が生じました。
「なぜ人はお寺にお参りにくるのだろうか。」 「なぜ人は仏様に手を合わせるのだろうか。」
そこで私はその疑問を解決するためにはどうしたら良いのかを考えましたが、
いくら仏教の本を読んで勉強をしても、その意味がわかりませんでした。
悩んだあげく私は一つの方法に気づきました。
参拝者の気持ちになって一緒にお参りをしてみてはどうかと。
在家出身である私は一般の方と同じ目線で仏教を始めれば、
自分の感じた疑問に対しての答えが何か見つかるはず。
そんな動機で巡礼の旅を始め、
西国三十三箇所、新西国三十三箇所、法然上人二十五霊場、西山国師十六霊場などを
お参りして廻りました。
すると初めのころは手を合わすことさえ恥ずかしかった私にも仏心が芽生え始め、
参拝すると合掌しながら読経をし、心が洗われてくるような落ち着いた新鮮な気持ちになりました。
法然上人の御一生は唯一筋、全ての生きとし生けるものが等しく救われていく、
御仏の本願を教え広められるためのものでした。
同時に様々な迫害と流罪という法難にもめげぬ不屈の道でもありました。
あらゆるものを抱擁し、育む慈悲の優しさは、しみじみとした安らぎを与えてくれます。
十六番札所である総本山粟生光明寺の御詠歌は、
『露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ』であります。
この歌は、法然上人が七十五歳で御流罪になられる時、九条兼実公が今生の別れに際し、
「ふりすてて 行くは別れの はしなれど ふみわたすべき ことをしぞ思ふ」
と詠まれた歌に対する返歌です。
《人の命は草葉の露のようにすっと消え行く儚きものであります。
互いの身が何時何処でどちらが先に果てようとも、
共に極楽浄土の蓮の台で逢える事を忘れてはなりませんぞ。》
法然上人の念仏の教えは、私たち罪深き凡夫の身でも往生を願い念仏称え申せば、
阿弥陀如来の本願のお力によって三悪道に堕ちることなく
生死、迷いの世界を離れ極楽へ往生させていただけるという事であります。
限りない報恩と敬慕の思いをこめて、私は初心を忘れず、今後も巡礼の旅へ行きたいと想います。
明眼利生 合掌